失い初めて知るもののなかりせば

人は何かを失って初めてその存在の大きさに気づき、呆然と立ち尽くす瞬間がる。

人間茂吉にとってふるさとの象徴、母「いく」の死に臨み慟哭を詠い上げた絶唱「死にたもう母」は、誰の胸にも迫ってくる。

そして、母が末期に教えてくれたこと。それは、母がこの世を去るという事実だけでなかっただろう。歌人の鋭い感性は、おそらく生まれてからこの方、自分が母と過ごしたかけがえのない「時間」そのものが、すでに遠い過去になってしまったと言うことを思い知らせたのではないだろうか。

ふるさとで過ごした時間の重み・深さをどうあがいても自分自身取り戻すことができないことを否応なく実感したとき、哀しみの重さ・深さが底知れない口をあけたのかもしれない。

そう、茂吉の胸中にぽっかり空いた穴をうずめるものは、葬り火の煙の中に浮かぶ母の面影。ただ、残されたものは物心ついてからのふるさとで過ごした、宝物のような記憶の数々ではなかったのではなかろうか。

生涯、茂吉は事ある度に、ふるさとと東京の間を往復し続けた。わたしにはまるで、大事な何かをなくしてしまったことを後悔しながら、なくしてしまた場所で、それを探しつづけていたかのように思われてならない。


金瓶村(現:上山市)と蔵王連峰


生家から上流1kほど、ちょうど記念館裏の川原。


  • 茂吉ふるさとへ走る
    大正二年五月十六日、茂吉は母危篤の知らせを受け、とるものもとりあえず汽車に飛び乗った。

  朝さむみ桑の木の葉に霜ふりて
      母にちかづく汽車はしるなり

   沼の上にかぎろいの青き光より
      愁いの来むと云ふかや
                白龍湖


奥羽本線沿い、置賜盆地北端の白龍湖

  • ははそはの母
    茂吉の母、「いく」は安政二年(1855)生まれ、享年59歳、茂吉30歳のことである。田圃は代掻きがすみ、そろそろ田植えも始まる頃であったろうか。生家の蔵座敷に横たわる母を目の前にした歌人も吉は、歌を詠みつづける。

  はるばると薬をもちて来しわれを
      目守たまへりわれは子なれば

  


  死に近き母に添寝の しんしんと
    遠田のかはず天に聞ゆる

  桑の香の青くただよう朝明けに
      堪えがたければ母呼びにけり

生家に残る蔵座敷

生家に続く路地

生家の門

  • そのとき
    五月二十三日、その日がとうとうやってきた。茂吉はなおも歌を詠みつづける。

  長押なる丹ぬりの槍に塵は見ゆ母の邊の我が朝目には見ゆ

  山いずる太陽光を拝みたる
     をだまきの花咲きつづきたり

  我が母よ死にたまいゆく我が母よ
       われを生まし乳足らひし母よ


  のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にいて足乳根の母は死にたまふなり

  いのちある人のあつまりて我が母のいのち死行くを見たり死ゆくを

  ひとり来て蚕のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり

  

蔵座敷入り口
菩提寺:宝泉寺本堂横の歌碑

  • 野辺の送り
    菩提寺の裏手の共同墓地のわきに置かれた棺が、薪や藁で覆れる。周囲には早苗が風にそよぐ田圃が広がり蛙の鳴き声なども聞こえていた。アザミやドクダミ、翁草が咲き乱れている。よもぎやスカンポが萌え出る頃、命というものの不思議で哀しいドラマがクライマックスを迎える。

    星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり

    ひた心目守らんものかほの赤くのぼるけむりのその煙はや

  • 灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり

蕗の葉に丁寧にあつめし骨くづもみな骨瓶に入れしまいけり

どくだみも薊の花も焼けゐたり人葬所の天明けぬれば


守谷家菩提寺:宝泉寺山門


守谷家の墓

アララギの樹

茂吉が通った小学校
宝泉寺の隣

表紙 | 郷愁写真館【茂吉の面影…】 | 郷愁写真館【上山温泉編】 | 郷愁写真館【蔵王温泉編】 | 郷愁写真館【楢下・生居編】
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