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つまり、この歌は、いつも自分の心の支えとしてある、ふるさとの山、蔵王連峰の主峰、熊野岳の山頂に立てる碑に刻むために、思いを込めて作った歌であった。 しかし、茂吉が初めから何の迷いもなく、弟、四郎兵衛の企てを承知したわけではなかった。兄茂吉の偉大さを信じ、何とか形にして後の世に伝え残したいと言う弟の気持ちと、歌人として自らの歌碑を建立することに対して、いささか懐疑的だった本人のズレはなかなか埋まることはなかった。 四郎兵衛はわざわざ上京し、茂吉の人生の師、菩提寺宝泉寺住職「窿応和尚」の書道の師「中林梧竹翁」が、明治31年富士山山頂に「鎮国の山」と言う碑を建立した話を持ち出し、熱心に口説いた。が、それでも茂吉は頷かなかった。 意気消沈して帰郷した四郎兵衛は、息子の重男と茂吉の同級生である石工鈴木惣兵衛とを伴って蔵王に登った。そして熊野岳の三角点近くに、恰好の土台石と碑にするさお石があるのを発見した。四郎兵衛は、まさに天の応援を得た思いだったに違いない。 が、この年(昭和9年)の1月、茂吉が帰郷した際とうとう歌碑建立をを決意し、四郎兵衛に告げたのである。この間の茂吉の心境の変化を推し量ることは難しい。一方弟四郎兵衛の喜びようは目に浮かぶ。そこには、弟が兄を思う心情が溢れ、逆に兄の弟に対する絶対の信頼が伺える。
職人達は中腹のコーボルトヒュッテに宿泊し、毎日約1時間半をかけて、急な山道を山頂まで通った。低く天幕を張り、今日風を避けながら腹ばいになって石を刻んでゆく。 それでも荒天のため何度か作業は中断された。四郎兵衛親子はときどき山に登り、職人達をねぎらいながら工事の進み具合を見聞しては、心沸き立つのを覚えていた。 茂吉自らの起毛によるかごじ[籠字] を刻み終えたのが8月21日、着工から40日目のことであったという。
やがて、やぐらが取り払われ道具類も片付けられた頃、参列者の顔ぶれもそろった。茂吉の弟子や、神官、像温泉青年団有志、総勢数十人が、この快挙を祝うために、熊野岳山頂に集ったのである。 ところが、式が始まる頃になると、突風がしばしば襲い氷雨が谷底から吹き上げる始末。参列者は全員寒さに耐え身震いしながら、神主のお祝詞に神妙に首をたれ、玉串をささげた。 碑のために作られた歌、碑のためにかかれた茂吉自身の筆、そしてこの山頂に何百年、何千年も碑になることを待っていたような蔵王の石が、ここに見事に一体化してこの世に姿をあらわしたのである。これはひとえに弟、四郎兵衛の兄を思う熱い思いの結実といっていい。このときの四郎兵衛の気持ちは、想像に余りある。
歌碑のまへにわれは来て時の間は言ぞ絶えたるあはれ高山は 茂吉のその姿をかたわらで見守っていた四郎兵衛は、、思わず嬉し涙にくれたいたと言う。 参考文献:「人間茂吉」 真壁仁 著
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茂吉翁生前唯一の歌碑 蔵王熊野岳山頂 熊野岳山頂の歌碑 撮影:K-H氏 ![]() ![]() 歌碑建立のために作歌され 茂吉自らが起毛した。
「短歌は直ちに、生のあらわれ」 「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」 散策する茂吉翁
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表紙 | 郷愁写真館【茂吉の面影…】
| 郷愁写真館【上山温泉編】 | 郷愁写真館【蔵王温泉編】 | 郷愁写真館【楢下・生居編】
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